読書メモ

最近読んでるカラマーゾフの兄弟で、第一部のごく前半に気に入った言い回しがいくつかあるのでメモしておこう。(亀山郁夫訳)

現実主義者が信仰にみちびかれるのは、奇跡によってではない。まことの現実主義者で、かつなんの宗教も信仰もしていない人間は、どんな時も奇跡を信じずにいられる強さと能力を持っているものである。もしも目の前で、うむを言わさぬ事実として奇跡が起きたなら、現実主義者はそれを認めるより、むしろ自分の感覚に疑いを抱くだろう。かりにその事実を認めるにせよ、それは自然の法則内での事実であり、自分にはその事実がただ未知のものにすぎなかったと考える。

まさしく。しっくりくる考えであると思う。

現実主義者においては、信仰心は奇跡から生まれるのではなく、奇跡が信仰心から生まれるのだ。現実主義者がいったん信仰心を抱くと、彼はまさにみずからの現実主義にしたがって、必ずや奇跡を許容せざるをえなくなる。

ここでいう信仰心とは何なのか。広い意味でキリスト教的な信仰を指すことはほとんど確かだと思うが。

あとほとんど同じ個所で

しかし不幸にしてそうした青年たちは、命を犠牲にすることが、おそらくこうした多くの場合におけるどんな犠牲よりも易しい、ということを理解していない。例えば若さにあふれる人生の五、六年を辛く苦しい学業や学究にささげることが、たとえ自分が選び、成し遂げようと誓った同じ真理や同じ偉業に仕える力を十倍強化するためのものであっても、彼らの多くにとってしばしばまったく手におえない犠牲であることがわかっていない。

というのも印象に残った。この文はアリョーシャについてである。アリョーシャは「実践的な愛」をつむことができる人間であった。手軽に見返りを求める「空想的な愛」にとらわれないことが困難であることはゾシマ長老と婦人のやり取りでも強調されている。

言っても、一時の衝動に身を任せることは魅力的ですよねえ。とくに情熱的な若者にとっては。この意味でアリョーシャは非常に成熟してると感じたんですがね。