悲しい

ずいぶん昔、うちには猫がいた。頭のよい、おとなしくて図体のでかいオス猫だった。拾ってきたのは母親で、始め片手に乗るくらい小さかったのが、立派に成長したのだった。ある日、その猫がベランダの手すりで日向ぼっこしていたとき、ほんのいたずら心で、その猫を柵の外に突き落としてしまった。ねこは臆病で、それまで家の中にずっといたのだが、それからと言うもの、たまに外に夜遊びに行くようになった。今思うと、猫の信頼を裏切ったから、やさぐれてしまったのかもしれない。
うちの猫は掃除機の音が大嫌いで、掃除を始めるとすごく怖がった。だから掃除中は、家中を逃げ回って毛を撒き散らしたものだ。ある日、それを見かねた母親と妹は、やはり面白半分で猫を押さえて掃除機で吸ってきれいにしようとしたのだった。猫が家に戻ってこなくなったのはそれからすぐだった。妹は泣きながら、それを見かねた両親は励ましながら、日夜猫を探した。それでも猫は見つからなかった。
その時自分はなんと言っただろう。なんと、「一番信頼されてるひとに裏切られて、どこかにいってしまったのだ」と言ったのだった。もしもはじめから自分が手すりから突き落としたりしなければ、猫も外に遊びに行くようにならなかったかもしれないのに。猫と、両親と妹にひどい仕打ちをしたのは俺だった。思い返すと、すごく悲しい気持ちになる。
いまその猫はどうしているだろうか。大往生できるような、幸せな暮らしをしただろうか。そうであってほしいと、強く思う。それで救われた気になるのは、欺瞞でしかないのだけど。