読書メモ

パイーシー神父の言葉

いまでは、俗世の学問は一つの大きな勢力になり、過去一世紀はとくに、聖書に記されている尊い約束を、何もかも秤にかけてしまいました。俗世の学者たちの容赦ない分析にさらされた結果、かつて神聖とみなされていたものはもう何一つ残っていないありさまなのですしかし学者たちは、部分の解明にばかり気をとられて、肝心な全体を見落とし、あきれるぐらい目先が利かなくなっているのです。

これに似たモチーフはアリョーシャの書きとめたゾシマ長老の言葉にも現れている。

ためしに俗世の人々や、神の民を上から見下ろしている俗界のすべてを見るといい。そこでは神の顔、神の真理がゆがめられていないかどうか。彼らには科学があるが、科学にあるのは人間の五感に属するものにすぎない。人間存在の至高の反面である精神世界はすっかりしりぞけられ、ある種の勝利感を持って、いや憎しみさえ浴びて駆逐されている。
俗世は自由を宣言した。最近は特にそうである。では、彼らの自由に見るものとははたしてなんなのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか!
(後略)

前に書いたようにアリョーシャは信仰と現実主義を内に共存させている。だとすれば、ここでいう科学や学問とはなんだろうか。というよりもむしろ現実主義者における精神世界とはなんだろう。


第二部の白眉は大審問官とかその前らへんを含む、イワンとアリョーシャの会話なんだろうが、その中でも特に好きな部分がある。

(前略)
おれがかりに、なにか深刻に苦しむようなことがあったとする。でも、このおれがどの程度苦しんでいるか、他人は絶対に知りえない。なぜって、他人は他人であって、このおれじゃないからさ。それだけじゃない。人間てのはな、他人のことを受難者と認めることに、めったなことでは同意しないもんなのさ、まるでそれが偉そうな地位でもあるかみたいにな。
なぜ同意しないか、おまえ、どう思う?例えば俺が悪臭を放っているとか、阿呆面しているとか、あるとき相手の足を踏んづけたことがあるとか、そんな理屈からなんだよ。(中略)それが、例えば理想のためみたいな、ちょっとでも高尚な苦しみでもあってみろ、慈善家はもう、ごくまれな場合しか認めちゃくれない。なぜって、たとえばだよ、その慈善家はこっちを見るなりふと気づくのさ。おれはおよそ、それらしい顔をしていない。なにか、そう、奴の頭んなかにある、たとえば理想のために苦しんでいる人間にふさわしい顔を全然していないってことにさ。

うーん。イワンは中二病なのだと第一部から思っていたのだけれど、彼の言葉の中でもこの部分は本当だろう。うなずきながら読んでいた。