シュレディンガーの猫

シュレディンガーの猫について、周りの人が話しているのを聞いたことがほとんどない。授業でこのワードを耳にすることはほとんど皆無だと言っていいと思う。実際ぼくも「シュレディンガーの猫」という言葉を授業で聞いた記憶は、雑談中のただの一度しかない。・・・と思う。
物理系の大学生の中では観測問題がこのような扱いを受けている現状について、過去から今に続く激しい論争を踏まえた一定の了承が行っていることと思う。そうした事情を踏まえた上で、我々物理学科の学生は観測問題の周りに柵をつくり、なるべく近づかないようにしながら卑屈に生きている。


・・・とかまあ、こういうあんまり大層なことを言うつもりはなくて、文系の学生とかこれまで量子論に触れたことのなかった人に対して量子論の不思議さを伝えるためにはシュレディンガーの猫というのは一つ魅力的な方法じゃないかということ。シュレディンガーの猫の話は普通だったらとても信じられないような、感動的なもののはずだが、人に話したところでちゃんとポイントが伝わるイメージが全く浮かばないのはどうしたことだろう。
この驚きは量子論に触れるまでに身につけた物理の素養と機械的世界観とのギャップに拠って立っているのかもしれない。そうだとすれば、シュレディンガーの猫の説明(するほうもされるほうも)は一筋縄でいかないのは自明なことだ。古典系に対する十分な理解なしに、量子論の不思議さは理解されない。でもこれは古典物理に対する理解が不要だということを意味するものではない。むしろよく親しんだマクロな物体を扱った古典物理の体系を通じて、物理の精妙さを感じさせてくれるという意味において必須に近いものだと思っている。

それでも僕は、漠然とみんなに量子論の与える驚きだらけの世界観を知って欲しいと考える。僕はその素晴らしさを皆と共有することで単純に喜びを感じるだろうし、皆も世界の天地がひっくり返るような、一生で何度もないような体験ができるでしょう?