攻殻機動隊からスタート!

攻殻機動隊を見たのだが、すばらしい作品だと思った。どこら辺が素晴らしいかは各人に実際に作品を見てもらうとして、ひとつ面白いと思ったのは、登場人物が自身の電脳を他人のそれとシンクロさせることによって、会話だけでなく、直接感覚を共有させることができることだ。これはコミュニケーションの究極形と言えるのではないかと思う。言葉の不自由を乗り越え、完璧な形で経験感情その他もろもろを共有することができてしまうのだから。
しかし、もしそのような能力が初めから人間に備わっていたとして、たとえば目と目で見つめあうだけで相手のことがすべてわかってしまうような能力がもともと人間に備わっていたとしたら、"芸術"と呼ばれるものはここまでもてはやされたのだろうか?何かを表現することの暗黙の前提として受け取る側の人間がいるわけで、受け取り手への感覚や感情の伝達が目的であるとしたら、芸術の価値はなかったかもしれない。つまり、表現と伝達における不自由あってこその芸術なのであって、人間が不完全であるがゆえに認められているのではないかと思うわけだ。同じことはスポーツにも言える。人間が無限の身体能力を持っていたら、スポーツで競うことに意味はなくなる。
このブログではお決まりだが、科学に結びつけて考えてみよう。人間が無限の計算能力を持っていたとして、無限の記憶力を備えていたとしたら、科学はここまで発達しなかったと断言する。横着する心が科学を発達させるというのはしばしば指摘されるとおりであって、不自由を感じることがなければそもそも科学の発達はなかった。科学だけにとどまらないが、しばしば指摘される「美しさ」みたいなものと、人間の不自由の間には、深い関係があるに違いない。