趣味としての学問

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高校生の一人息子に、大学進学のことで相談をされた。
文学部を受験し、史学科に進みたいと言う。
私は一も二もなく「歴史を精一杯勉強しなさい」と答えた。

しかし事情はいささかややこしいようで、息子の表情は晴れない。
妻が反対しているというのだ。
嫁は息子を法学部へ進ませたいらしい。
理由は「就職に有利だから」だ。
私は腸が煮えくり返るような思いがした。

いつでもどこでもこの問題は発生する。もし自分が同じような相談を高校生から受けたら、即効性のある解決策ではないが、一つの考え方として趣味として学問を継続する道もあるんじゃないのと提案したい。とくに、史学科への進学の動機が歴史の勉強が好きだからという場合には強く趣味での勉強を勧める。好きでさえあれば、動機さえ保たれるのであれば独学という方法も可能だろうからだ。しかし歴史学について、研究を行っていきたいという意思があるのであれば話は別で、ぜひとも史学科に進学すべきだと思う。
勉強と研究はまったく違う。前者が路線バスだとすれば後者はF1マシンだ。それくらい違う。しかもどちらがどちらの上位互換だとか、そういうことはまったくない。だから研究を行おうと思うならば、専門訓練が必要になる。特にその学問の知識、考え方、価値観について体系的に吸収する必要がある。そうしないと価値がある、人(主に専門家)から認められる研究ができない。このためには専門課程に進学し、教員と接し、講義を受け彼らの興味について見聞きすることで自分の内面に学問に特有の価値観が構築されていく。学会発表や論文などのアウトプットに対して、議論を通じてフィードバックを受ける。こうした過程が学問体系の吸収には必要なのだ。だから研究を行いたいのであれば専門課程で学ぶ必要がある。


僕は、進学するときに本当に時間をかけて考えるべきなのは、自分が研究を行いたいのか否かということだと思う。それは研究が特殊な活動だからだ。研究というのは新しい知見や発明を産み出すことがアイデンティティなのだから、宿命的な生産性の低さを抱えている。
歴史学だろうが法学だろうが、ある価値観において、枝葉を伸ばすというのがルールを利用した効率的な世渡りだろう。一方で研究という活動は、根っこの方を伸ばす。満足のいく仕事をしたとしても、世間一般には日の目が当たらない場合もあるだろう。もし、でお金持ちになりたい思っているならば社会のルールに従うのが効率的だろう。ルール内で高得点を取りたいならば別に研究をする必要はない。研究者は世間から見ればアホみたいな問題について頭をひねってウンウンうなりながらルールや常識を疑うことに、心のどこかで誇りを持っているかもしれないのだ。そういう部分について自分に適性があるかどうか、じっくり考えてみることは意味がある。
研究は資金獲得、ネットワーキングやポジション探しなど難しい部分はいっぱいあるが、それはどれも実際的なことだ(だからこそ切実なのだが)。だから高校生の背中を押す時には、そういうのはとりあえず忘れてよいよと言いたい。