留学生の希望によって富士山に登ってきた。僕が前回上ったのは6年前、吉田口からで、そのときは猛烈な混雑に見舞われた。今回は須走口からスタートし、7合目の山小屋に宿泊した。人は少なく、快適な登山道だった。
不幸なことに、心配していた留学生ではなく、僕が高山病にかかってしまった。山小屋での食事のころは手足が痺れ頭痛もひどく、チーム員から「顔面蒼白」との評ももらってしまった。断念も止む無しかと思ったが、食欲のないところを無理やり食べて耐えていると、幸いにも回復した。代謝を活発にすると早めに適応するというのも聞く話だ。
早朝3時ごろ、空を眺めると天の川が見えた。流星も三、四個見えた。ご来光は8合目付近で迎えた。8合目から、須走ルートはは混雑の吉田ルートと合流するが、日の出後の登頂ルートはいい感じに空いていた。道がいくら空いていても、ずんずん歩いてしまうと息が切れて頭が痛くなるので、1歩を10センチくらいを心がけて進んだ。遅くても一定ペースで歩くと、周りの人よりかえって早いペースで登れてしまうのは少し痛快だ。その後剣が峰にたどり着き、お鉢巡りをして下山。山頂では小学校に上がったばかりじゃないかという子供が何人かいて驚いた。
復路は思っていたよりしんどかった。天候が優れなかったこともあるが、御殿場ルートを踏破した経験者二人すらも、「不思議なくらいきつい」と言っていた。一人は富士登山15回、もう一人は4回という手練れなのだが、結局、歳のせいかということになった。帰りは渋滞に巻き込まれたが、留学生も満足していたし、良い旅だった。

今回の登山に当たって、雨具や靴からシャツまで、一通りの用具を買いそろえた。総額6万円くらいかかったが、やはり良いものは良い。特に靴の性能が良いと安心感が違う。
今年は次は御岳山あたりかということで、少々ごつすぎる気もするが、せっかく買ったので用具は活用したい。

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Puzzle答え

球殻の端に電圧Vをかけ、電流Iが流れたとする。
材質を一緒のまま、球の半径を2倍にする。電圧は同じくVとすると、相似則から球殻上の各点の電場は1/2。つまり電流密度も1/2。
電極の位置を南北極とすると、赤道を通過する電流は、電流密度と赤道の長さの積だから、1/2*2で1。つまりI。
したがって抵抗は半径が2倍になっても変わらない。何倍になっても変わらない。
これは2次元の抵抗率の次元が、抵抗と同じことと同根だ。したがって、3次元の中身の詰まった球だと具合がかわってくる。

von Klitzing先生との食事会があった。非常に活動的な先生で、世界各地で会議に出席している。
今回は日本に来たからちょっと立ち寄ったのだそうだ。ちょっと立ち寄ってもらえるグループにいられるのは幸運に思う。
日本での研究における横の連携の弱さについて話したりした。難しい話だった。
勇気を出して物理について聞いてみた。最近はナノアーキテクトロニクスに興味を感じていると言っていた。

英語の聞き取りに課題があるなと感じた。話すならできるけど、聞き取れない。耳が悪いんだろうか。

puzzle

電気を通す薄い金属の球殻を考える。球殻の、北極点と南極点にリード線をくっつけ、電流を流すとする。北極点と南極点には電位差が生じるだろうから、2点間の抵抗が求まる。
つぎに、最初の2倍の半径を持つ球殻を同じように考える。やはりリード線をくっつけ、電流を流すとする。このときの抵抗値は、初めの球殻の場合の何倍か?
また、球殻ではなく、中身の詰まった金属球で同じ実験をしたらどうなるだろうか?

ポーランドでの出来事

学会でポーランドに行ってきた。東欧に足を踏み入れるのはこれが初めてだった。東欧と言うと民族主義的というイメージがこれまであったのだが、幸いにも今回の旅でそれを感じることはなかった。ちょうど開催していたEURO2016をテレビ鑑賞している人たちの悲鳴がホテルに響き渡っていたというのはあるが…(ポルトガルに延長戦負け)
ポーランドは18世紀に3分割され国が地図上から消滅するという憂き目を見た。後進的な封建制が災いし、各貴族が隣接する大国と各々の利害から結託した結果のことという。また20世紀にも独ソによって占領を受けた不幸な国でもある。そんな土地であるから、無知からくる地雷を不意に踏むのも怖かったので、念のため歴史について勉強して行ったのだ。実際に訪れてみると農村部へ行くと特に牧歌的で美しい風景の多い、豊かな農業生産力を持つ国という印象であった。また、人々はみなルールをきっちりとよく守る。車を運転する人も歩行者によく気づかい、道を譲るなどの細やかさのある人々であった。

学会では、各国の研究者たちが集まり最新の研究状況について報告しあう。小さい業界であり、その分野で研究を行うほとんどすべての人が一堂に会する場と言ってもよい。僕は今回が初めての参加だったのだが、その活発さに強く感銘を受けた。僕自身は1年半も前に取ったデータについての発表であり、諸事情から現在では僕は別のテーマを抱えている。道半ばにおいて、言わば志折れた状態での発表であったが、先端を行っているいくつかの国から激励をもらったのはうれしかった。同時に、研究の評価軸は決して一元的ではないという、組織においては忘れられがちな事実について再確認することができたので良かった。
研究をやめたことについて、フランスでPLをしている研究者が非常に怒っていた。正確に言えばやめたわけではなく、別の研究者に引き継いだわけだが、片手間でできるようなテーマではないということである。そりゃそうなのだが、彼には怒る理由がある。ヨーロッパにおいては協調が基本なのだ。経済においてもそうであるし、研究においても協調の重要性は論を俟たない。日本が協調することにより、業界全体が盛り上がり、様々な面で研究の遂行もしやすくなる。なのに日本は手を貸さないというのか。こういう誘因じゃないかと思う。
それからもうひとつ、中国の台頭は、話題として外せない。非常に大きなリソースをつぎ込んで、先進的な研究をしている国からシステムを丸ごと(ともすればブレーンごと)購入する作戦らしい。それでもこれまでのと全く同様のやり方ではなく、研究例の比較的少ない測定方式への転用を見ている。多少ひねりを入れてくるあたりが本当に賢い。数年もすれば、一線で成果を出し始めるのだろう。こういう大技はなかなかまねできない。一般道を行くのと、航空機を利用するくらい効率が違う。こうなってくると正面から勝負するのはかなり難しい。後進のメリットを生かすためには、動き出す前に頭を振り絞ることが必要なのだろう。

人間がまだコンピュータに勝てるゲーム

卑屈なタイトルをつけてみた。
AlphaGoがセドルに勝って3か月以上が過ぎた。碁は完全情報ゲームの最後の砦と目されていたこともあり、もうそのようなゲームで人間がコンピュータに勝てることはないのだという通念というか、諦念が浸透しだした気がする。僕の狭い知見では、ゲームAIの興味はアクションゲームのリアルタイムフレーム演算だとか、不完全情報ゲームに移っていったように見える。
しかし、本当にそうだろうかと問うてみたい。2人のプレーヤーが対峙し、ゼロ和になるポイントを稼ぎあうゲームにおいて、コンピュータがまだ人間に勝てないものがまだあるのではないだろうか。もちろん時間の問題であるにしても、そのようなゲームがあるとしたら、それはどういった理由によるものだろうか。
実は、このような観点から、アリマアというゲームが発生したという。

アリマア (Arimaa) は、チェスの盤と駒を使用してプレイすることができる2人用のボードゲーム。子供でも理解できる簡素なルールでありながら、各局面で指せる手の数を何千通りにもすることでコンピュータによる計算を困難にしていることが特徴。元NASA職員であるオマール・サイド(Omar Syed) が考案し、2002年11月20日に発表した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%9E%E3%82%A2

アリマアは各局面における指し手の可能性を広めることで、先読みを困難にした。しかしそれは、枝刈りの困難さという程度問題に還元されたように見える。なぜならこのゲームにおいてさえ、実はすでに人間はコンピュータに敗北しているからだ。

2014年までは人間がコンピュータを退けてきたが、2015年、David Wu が開発したプログラム「Sharp」が人間を7勝2敗で破り、賞金が支払われた。[1]

コンピュータプログラムの開発者には1万ドルが支払われたそうだ。


僕が考えたいのは、人間の言語処理能力に根差したゲームの存在についてだ。機械による自然言語処理は、この時代においてさえいまだに困難な課題らしい。
外国語の翻訳のひどさを見るに、人間が生まれながらの能力として備えている言語能力には、現段階のいかなるソフトウェアも及ばないらしい。間違いなく解決ニーズの大きな問題であるにも関わらず、実用に耐えるものが生まれてこないというのは、相当困難なものだからなのだろう。人間の脳という計算機が、それだけ言語処理に特化したものだという、これまた程度論に帰するのかもしれないけれど。
このような脳の働きを利用した、ゲームは考えられないだろうか。そのようなゲームにおいては、人はまだコンピュータに対して有利に立つはずである。そのようなゲームをプレイするAIの開発は、面白いものになるだろう。人間に勝つAIが生まれたとき、人は外国語を学ぶ必要がなくなるかもしれない。

Longman Pocket Activatorとかいう読む辞書

英語辞書を買う際に、電子版を買うか紙版を買うかはいつも悩めるところである。僕は業務上英語が必要になることが多いのだが、一方で英語学習を楽しんだりもしている。業務と学習とで、電子版と紙版の辞書の使いやすさは、変わってくると思う。つまり、業務には電子辞書が、学習には紙辞書が適していると思うのだ。
業務で辞書を引くときに必要となる情報は、たとえば「この単語は可算名詞だっただろうか」とか、「この動詞にはどんな前置詞を続ければよいのだろうか」など、ピンポイントのものであることが多い。一方で学習の時に必要な情報というのは、その単語の様々な使い方であり、広い範囲の知識だ。多少あいまいな形での記憶であっても、いつかは役に立つ場合が多く、こうした広範な知識が飛び込んできやすい紙辞書は学習向きだ。

紙の辞書で最近買ってよかったと思うのが、Longman Pocket Activatorだ。
この辞書は、ともすると英語学習のための本と呼ぶべきものなのかもしれない。日本で人気があるとは聞かないが、大学受験レベルから読み始めることができるので、もっとブレークしてもよいと思う。

LONGMAN POCKET ACTIVATOR DICTIONARY (Lpd)

LONGMAN POCKET ACTIVATOR DICTIONARY (Lpd)

個人的なこの本の利用法だが、枕元において気が向いたときに少し開いて眺めたりする。この書籍には、僕の知らない単語などはまず出てこない(それでもinformalな表現は、たまに出てくるけど…"gig"とか)。内容が易しいので何気なく開く気になる。

内容の魅力についてはweb上でもちらほら見つかる。
Longman Language Activator : 翻訳屋佐吉の生活と意見
良質なボキャ本として読める「Longman Pocket Activator Dictionary」 - はてな読み

現在価格は1711円となっているが、これは僕が買った時点での821円からだいぶ上がっている。洋書の類はたまにこんな風に価格が乱高下するので困る。